馬鹿にされるくらいがちょうどいい
共感の重要性を最近あちこちで耳にする。共感を生むものが、これからの時代でヒットするには欠かせないみたいだ。
なぜこんなの共感が取りざたされているいるか、考えてみると、お客さんの立場、評論家の立場を取りたがる人がとても増えているからだと感じる。
お客さんの立場になりたがるのは、個人的にあまり好きではなくて、馬鹿にされてもいいから、舞台でバカやっている立場でありたいと日頃考えている。
みんながお客さんの立場になりたがるのを利用して、共感されまくりたいと思い、最近は日常的に共感できるものを観察している。
自分が共感を覚えるものは何か。
不器用だけど一生懸命な人の姿
テレビで耳にする痛快なコメント
しかし、なぜ共感を覚えるのか、じっくり考えてみると、共感の本質的なところは自分よりちょっと優れた誰かに自分を重ねる行為なんじゃないかと思う。
不器用だけど一生懸命な人は、「見た目がかわいらしいのに」という隠れた前提がある。痛快なコメントは、「とても自分が言えないような」という隠れた前提がある。
自分と同じような人、自分が言えるようなコメントには、人は「共通」を見出すだけで共感は覚えない。
「手の届かないような要素」と人のこころにある「ちょっとどうしようもない要素」
これらが合わさったところに人は共感する。
「手の届かないような要素」を手にしようとすると、人は批判されることが多い。
共通を乱そうとするやつに、異常に厳しい人が少なからず存在しているからだ。
ただ、そこで、まわりから無理だと馬鹿にされながら、批判を受けながら、手の届かないような要素を手にしようとすることで、人から共感を得られる。
馬鹿にされるくらいがちょうどいい。馬鹿にされるくらいがちょうどいい。
そのくらいの心のありようで日々を過ごしたい。
父の日
今週のお題「おとうさん」
なぜか今でもはっきりと覚えている父との思い出がある。
父が帰宅し、晩御飯を食べていた。スーパーで買った、値引きされた海鮮丼だった。
僕は父が麦茶を取りに行っている隙を見て、海鮮丼のすべての刺身の裏側に大量のわさびをつけた。
面白いと思ったのだ。
しかし、何も面白いことは起きなかった。温厚な父が珍しく怒っていた。
「せっかくのおいしいものをまずくするな」
当時の僕はなんだか、やりきれない気持ちだった。子どもが父親を、家族を笑わせたくてやったことにそんなきびしいこと言う必要もないじゃんと思った 。
正直今でもあのときの父は、単にいらいらしていただけだと思う。
ただ、いらいらしてたからこそ、普段食べられない海鮮丼を安く買え、食べることができる瞬間を楽しみにしてのだろう。同じことを、休みの日に食べに行った回転寿司屋でやってもきっと怒られなったとはずだ。
このちょっとしたトラウマのような思い出は、今では
「人が大事にしているものを、茶化すネタにしてはいけない。」
「人が大事にしているものは、その人が置かれている状況によって変わる。」
「自分では予想もしなかったものが、大事なものだったりする。」
という学びとして昇華されている。
世の中、意識せずにワサビを塗ってしまう人も、悲しませようとしてワサビを塗る人もいる。日々生活していると、思わぬところにワサビが仕込まれていて、ツーンと来ることが多い。
でも、その人が大事にしているものだけは、ちゃんとそのままにしてあげられるような暮らしになったらいいなと思う。
ひょっとすると、父の教えは
「ワサビを取り去ってあげられる人間になりなさい」
ということだったのかもしれない。
小学生の自分にはさすがに難しいよ、と思うけどそんな教訓をくれた父へ感謝したい。
初任給の使い道、どうするか悩んでいたけど、最大限の敬意をこめて、海鮮丼をご馳走しよう。おいしいものをおいしく食べてもらおう。
「この海鮮丼が成長の証です」というのは、60近い父にはさすがに難しいかもしれないけど。
Audibleをはじめた
Audibleでオーディオブックを聴いています。
月額1500円で1コインがもらえ、そのコインで一冊オーディオブックをダウンロードできます。本の中には一冊1500円以上するものもあるので、お得な面もあります。
始めたきっかけは、疲労で目がしんどい、活字を追うのがつらいときでも、本から情報を得たかったためです。
僕が感じるメリットの他にも、満員電車や歩きながらでも本を読める(聴ける)点が大きなメリットのようです。
使ってみた感想は、今のところ「右から左」です。全く頭に残らない。
紙をめくって、活字を目で追うことで記憶に定着させることが頭に染みついているためだと感じています。オーディオブックでの学び方のテンプレートが頭の中にできていない。
聴いて学ぶことの定番と言えば、英語。英語のリスニングの勉強と言えばシャドーイング。オーディオブックもシャドーイングすることで、ただ読む以上のメリットがあると考えています。
シャドーイングでインプットとアウトプットを同時に行うことで、紙の本で本の感想や要約を書くアウトプットを越えられれば、面白いツールだと思います。早速試していきます。
考えてないように見えて、考える人
「とりあえず言った通りやってくれないかな」
管理する人間と実際にやる人間
実際にやる人間は、言った通りにするとまずいことを知っている
そのためそこにスポットが当たりすぎないよう、別な方法を試す
しかし、指示した側は、なぜ言った通りにやってくれないのかと、疑問に思う
結果、やる人間が苦しい状況に陥る
つまるところ、いかにその方法がだめであるかを示さなくてはいけない
「それが本当にだめかどうかは君が判断しなくていい」
なるほど、こちらがだめと思っている方法が良いというパターンもあると
こういうことが続くと、人は
「考えたほうが失敗する」「怒られる」「無駄な苦労をする」
「とにかく指示に従った方がいい」となる
と、ここまで、下書きをしたのが3日前
自分のこれまでを振り返ると、後から振り返れば余計なことだったことばかりだ
さらに深く考えると、それは人の言われたことを的確に理解できていなかったからだ
思うに3パターンある
①ボスからの指示→的確に理解→要点を抑え実行→良い結果
②ボスからの指示→とにかく実行→まずまずの結果
③ボスからの指示→理解できない→自分なりに考えた代案を実行→悪い結果
自分で考えるというのは案外狭い範囲のことで①の「要点を抑え実行」の段階にしかないと感じる
大事なことは指示を「的確」に理解すること
これができる人が、「考えてないように見えて、考えている人」なのだと感じた
小学校の校庭にあったあれ、観光地にあったあれ、駅前にあったあれかもしれない。
だって、どう考えてもロダンのは③だから
母の日
今週のお題「母の日」
母が最近ひとり旅にこっているらしい
旅先の写真がしばしば送られてくる
自分はその写真に感想を述べる
「いいね」「すごい」
思えば自分も大人になるまで、何かあれば逐一母に報告していた
その度に母は
「いいね」「すごい」
と言ってくれた
母はどんな気持ちだったのだろうと考える。
子どもが報告することは大概ちっともすごくない。心にもないことを言っていたのか
SNSの「いいね」も本当に「いい」と思って押している人が何人いるのだろうか。相手を喜ばせるため、心にもないことをいう。それと同じなのか。
違いますよ、と。
親子とSNSを介した友だち。
エピソードの深さが違いますよ、と。
何もできなかった、がきんちょの自分が、友人つくり、遊びに行く。親元を離れ、ひとりで暮らす。
何かをした、という結果よりもそこに至るまでの物語を知っているから、「いいね」と言ってくれたんですよ、と。
自分の時間を犠牲にして、母親という役割を当たり前のように全うしてくれた母。
その物語を知っている自分
今、母が旅行をして、送ってくる写真
どんな写真であっても自分の感想はこれしかない
「いいね」「すごい」
TOEICの学習法は抽象化
最近、後輩に「TOEICの勉強法教えてください」と聞かれました。
とても努力家でかわいらしい後輩なので真剣に、端的に良いアドバイスをしたいと思い、改めて自分がやってきたことを振り返ってみました。
考え抜いて出てきたのは、「公式問題集を何度も解くこと」というありきたりな回答でした。
後輩を残念がらせたくなかったのでもう一歩踏み込んで考えました。
公式問題集を何度も解くのは暗記のためではありません。
本番の試験では、公式問題集を抽象化して回答できると高得点につながります。
TOEICは、この「抽象化のうまさ」を測る試験と言っても過言ではない気がします。
これを踏まえ具体的な対策としてすべきことは2つ
1.公式問題集の設問に回答し、解説をしっかり読んで答え合わせ
2.公式問題集の例文(LRともに)を暗記する
1は回答のリズムをつかむことができます。
2は問題のリズムをつかむことができます。
あとはこのリズムを本番の試験で抽象化して解くだけです。
だいぶ感覚的な話になってしまいましたが、まわりを見てみると、TOEICの点数が高い人は、ロジカルというよりは、感覚派の人が多い気がします。
点数の向上だけに主眼をおいた勉強法なので、英語力の向上は一切保証しません。
が、手っ取り早く点数を上げたい方には良い方法だと思います。
と、ここまで言ったら後輩は喜んでくれるのでしょうか。