馬鹿にされるくらいがちょうどいい
共感の重要性を最近あちこちで耳にする。共感を生むものが、これからの時代でヒットするには欠かせないみたいだ。
なぜこんなの共感が取りざたされているいるか、考えてみると、お客さんの立場、評論家の立場を取りたがる人がとても増えているからだと感じる。
お客さんの立場になりたがるのは、個人的にあまり好きではなくて、馬鹿にされてもいいから、舞台でバカやっている立場でありたいと日頃考えている。
みんながお客さんの立場になりたがるのを利用して、共感されまくりたいと思い、最近は日常的に共感できるものを観察している。
自分が共感を覚えるものは何か。
不器用だけど一生懸命な人の姿
テレビで耳にする痛快なコメント
しかし、なぜ共感を覚えるのか、じっくり考えてみると、共感の本質的なところは自分よりちょっと優れた誰かに自分を重ねる行為なんじゃないかと思う。
不器用だけど一生懸命な人は、「見た目がかわいらしいのに」という隠れた前提がある。痛快なコメントは、「とても自分が言えないような」という隠れた前提がある。
自分と同じような人、自分が言えるようなコメントには、人は「共通」を見出すだけで共感は覚えない。
「手の届かないような要素」と人のこころにある「ちょっとどうしようもない要素」
これらが合わさったところに人は共感する。
「手の届かないような要素」を手にしようとすると、人は批判されることが多い。
共通を乱そうとするやつに、異常に厳しい人が少なからず存在しているからだ。
ただ、そこで、まわりから無理だと馬鹿にされながら、批判を受けながら、手の届かないような要素を手にしようとすることで、人から共感を得られる。
馬鹿にされるくらいがちょうどいい。馬鹿にされるくらいがちょうどいい。
そのくらいの心のありようで日々を過ごしたい。